大判例

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最高裁判所第一小法廷 昭和56年(オ)1196号 判決 1983年9月08日

上告人

甲山ハツ子

上告人

甲山ツギ子

右両名訴訟代理人

仁科恒彦

木村一八郎

被上告人

Y1生命保険相互会社

右訴訟代理人

中村敏夫

山近道宣

被上告人

Y2生命保険相互会社

被上告人

乙川花子

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人らの負担とする。

理由

上告代理人仁科恒彦の上告理由書及び上告理由補充書記載の上告理由並びに上告代理人木村一八郎の上告理由について

生命保険契約において保険金受取人の指定につき単に被保険者の「妻何某」と表示されているにとどまる場合には、右指定は、当該氏名をもつて特定された者を保険金受取人として指定した趣旨であり、それに付加されている「妻」という表示は、それだけでは、右の特定のほかに、その者が被保険者の妻である限りにおいてこれを保険金受取人として指定する意思を表示したもの等の特段の趣旨を有するものではないと解するのが相当である。けだし、保険金受取人の指定は保険契約者が保険者を相手方としてする意思表示であるから、これによつて保険契約者が何びとを保険金受取人として指定したかは、保険契約者の保険者に対する表示を合理的かつ客観的に解釈して定めるべきものであつて、この見地に立つてみるときは、保険契約者が契約の締結に際して右のような表示をもつて保険金受取人を指定したときは、客観的にみて、右「妻」という表示は、前記のように、単に氏名による保険金受取人の指定におけるその受取人の特定を補助する意味を有するにすぎないと理解するのが合理的であり、それを超えて、保険契約者が、将来における被保険者と保険金受取人との離婚の可能性に備えて、あらかじめ妻の身分を有する限りにおいてその者を保険金受取人として指定する趣旨を表示したものと解しうるためには、単に氏名のほかにその者が被保険者の妻であることを表示しただけでは足りず、他に右の趣旨を窺知させるに足りる特段の表示がされなければならないと考えるのが相当だからである。それゆえ、保険契約者が、保険契約において保険金受取人を被保険者の「妻何某」と表示して指定したのち、「何某」において被保険者の妻たる地位を失つたために、主観的には当然に保険金受取人の地位を失つたものと考えていても、右の地位を失わせる意思を保険契約に定めるところに従い保険金受取人の変更手続によつて保険者に対して表示しない限り、右「何某」は被保険者との離婚によつて保険金受取人の地位を失うものではないといわざるをえない。そして、以上の理は、会社、事務所、官公庁、組合等の団体を対象とし、被保険者が死亡し又は所定の廃疾状態になつた場合に死亡保険金又は廃疾保険金を支払う趣旨の団体定期保険契約についても妥当するものというべきである。

これを本件についてみるのに、原審が適法に確定したところによれば、(1) 上告人甲山ハツ子、甲山ツギ子の父である甲山太郎(以下「太郎」という。)の所属する大分県医師会は、昭和四八年七月一日、被上告人Y2生命保険相互会社との間で、被保険者を太郎、保険金受取人を「妻、甲山花子」、保険金額を四〇〇万円とする団体定期保険契約を、また、昭和五一年一〇月一日、被上告人Y1生命保険相互会社との間で、被保険者を太郎、保険金受取人を「妻、甲山花子」、保険金額を五〇〇万円とする団体定期保険契約をそれぞれ締結し(以下これらを「本件各契約」という。)、本件各契約はその後太郎が死亡するまで毎年更新された、(2) 被上告人乙川花子は、本件各契約締結当時太郎の妻であつたが、訴外乙川一郎との不貞行為が原因で昭和五三年五月二三日太郎と離婚することを余儀なくされ、同年一一月二四日右訴外人と婚姻した、(3) 本件各契約が依拠する被上告人Y2生命保険相互会社、同Y1生命保険相互会社の各団体定期保険普通保険約款三四条には、保険契約者は、被保険者の同意を得て死亡保険金受取人を指定し又は変更することができ、併せて右指定又は変更はその旨を保険者に書面で通知してからでなければ保険者に対抗することができない旨が定められているが、本件各契約において右約款所定の保険金受取人の変更手続がとられないまま、太郎は昭和五五年一月二〇日に死亡した、というのである。右事実関係のもとにおいては、本件各契約の保険金受取人は保険金受取人として表示された「甲山花子」すなわち被上告人乙川花子であり、同人は自己の不貞行為が原因で太郎と離婚することを余儀なくされてその妻である地位を失い、乙川一郎と婚姻したからといつて、本件各契約の保険金受取人の地位を喪失したものとはいえないというべきであつて、これと同旨の原審の判断は正当として是認することができる。原判決に所論の違法はなく、右違法のあることを前提とする所論違憲の主張はその前提を欠く。論旨は、これと異なる見解に基づいて原判決を非難するか、又は原判決の結論に影響しない部分についてその違法をいうものにすぎず、いずれも採用することができない。

よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(団藤重光 藤﨑萬里 中村治朗 谷口正孝 和田誠一)

上告代理人仁科恒彦の上告理由

はじめに

上告人が心から希うところは、万人の納得に値する判例の樹立である。

我国における資本主義体制は、永年に亘る助長政策によつて、遂に発展の極度にまで達し、今や、そのための必要悪とせられておつた非道義性の修正をもつて、緊急の課題とする時点に至つた。

同時に、その間逼塞を已むなくせられていた、我民族固有の道義感は、正に、甦生の時を得たといえるのである。

この際に当つてなされた、原審判決の内容たるや、旧態依然たる大量契約保護主義の残澤以外の何ものも、これを認めることができないものであつて、これを現時代における公正なる社会通念として、よく黙視することは、あり得ないのである。

本件は、正に、時代を画すべき試金石といえるであろう。いしくも、被上告人らの第一審における答弁書の付記は、このことを暗示する感が深いのである。

偏えに、高邁なる御識見の御明断のほどを、仰いで已まない次第である。

第一、いわゆる付合契約および大量画一処理の修正について

以下、異例の形式ながら、卒直に意見を抜瀝することをお許しいただきたい。

生命保険契約は、今や、種類、数量ともどもに、有史以来の最盛期にあり、保険者は流通資本界の王者として、経済界に君臨するに至つている。しかし、そのことは、同時に、その間いかにこれを助成するための政策的配慮が採られたかを意味するものであり、その反面において、いかにいわゆる付合契約、大量画一処理主義のための個々の契約者の犠牲が大きかつたかをも、明かに物語るものに外ならない。これ、永年に亘つて必要悪として重ねられて来た非道義性についての、強い反省が望まれる所以である。

付合契約は、衆知のとおり、当事者の一方において予め作成済の契約約款について、相手方が全面的同意をなすことによつて成立するものであつて、その目的は、要するにその作成者の便宜の外の何ものでもないのである。したがつて、相手方において、個々の希望を述べる等の余地は全くなく、反面、その作成者が自ら不利な条項を記るす道理もないわけであるから、たとい、相手方の立場を考慮し、できるだけ公正を期した積りであつても、その趨くところ万全たり得ないのは当然である。しかも、その全面を覆う極細活字の羅列に至つては、一般常識人の到底直ちにこれを理解し得べきものでなく、保険者の末端外務員も亦、これをよく説明し得る素養を欠く現状においては、保険契約者は唯だ諾々と当該外務員にその押印を托する外ないのが実情に過ぎない。

したがつて、その間必然的に伴う、個々の契約についての自由、公平、道義等の諸概念の欠如の必要悪の修正については、これを保険者自身の自制と裁判所における個々の案件についての周到なる洞察に基ずく救済とに俟つ外はないのであつて、今やこれを最も急務とする時であることはいうまでもないところである。

大量画一処理に至つては、その名の如く、全く大量契約者の事務処理上の内部的問題にしか過ぎない。如何に重要なものであろうとも、これによって相手方に犠牲を強い得る理由のないことは、社会通念を俟つまでもなく自明というべきである。

ただ、資本主義体制の急速な確立のために、それが国家的要請であつた一時期においては、必要悪として、ある程度許容せられ得たとしても、その修正期にある現在なおこれを保護するが如きことは、社会通念上の道義感において到底許されないこと、亦自明のところである。

したがつて、現時点においては、一方保険者の内部的取扱の企画的改善とともに、従前の犠牲者に対しては個々の案件について、これをできる限り救済することが最も急を要するものといわなければならない。

第二、我が民族固有の伝統としての道義感と離婚とについて

今日、後進国家の著しい勃興は、偶々先進国の資本主義体制が頂点に達しその修正期に入つたのと時を同じくしたため、いずれの国を問わず、驚くべき民族意識の昂揚を見るに至つているのである。

道義感は、民族固有の伝統として、よく国家の指導精神を形成するものである。さらに身分法は、国の根幹をなすものであり、婚姻法は、またその中心に位するものである。

故に、憲法第二四条は、婚姻、離婚のいずれに対しても極めて厳粛にこれを規定し、いやしくもこれをないがしろにすることのないよう懇切に指針を宣しておるのである。

したがつて、我が国における離婚は、同条に基ずき民法、戸籍法上に、極めて厳格に規定せられ、内外いずれの面においても、絶対的概念となつているものであり、いうなれば、取引法上の概念に過ぎない対抗要件の如き規定によつて、全く煩わされることのない高貴な性格を有するものといわなければならないのである。

第三、保険金受取人の地位について

元来、保険金受取人は、保険契約者が自由にこれを指定し、かつ、一般的約款に関する限り、その変更も亦これを自由とせられているのである。また、事故発生前に死亡した場合には、その地位は当然消滅し被保険者に帰するものとなつているのである。

したがつて、保険金受取人の地位は、本来極めて脆弱、不安定なものに過ぎず、いわば、単なる期待者であつて、特に権利として保護に値するものと解せられてはいないのである。

したがつて、保険法が、保険金受取人の変更について、これを保険者に通知しなければ、保険者に対抗できない旨を規定したのは、保険金受取人とは何らの関係なく、純粋に保険者を不測の損失より保護することを目的とした、取引安全上の配慮に過ぎないのである。

第四、上述のところに基づく一応の論理的帰結と、序でをもつて予め記す後述のところに基ずく結論とについて

上述するところによつて、熟々これを考察するとき、その論理的帰結は次のとおりである。

イ、今や反省、修正期に入つた生命保険契約については、大量契約画一処理の名下の保護によつて生じた個々の弊害について、これを是正することを急務としなければならない。

ロ、離婚法は、憲法に基ずく厳格な身分法である。したがつて、離婚した妻が、夫の生命保険金について、これを受領するようなことは、絶対あらせてはならない。

ハ、生命保険契約における保険金受取人の変更の際の保険者への通知は、純粋に保険者に不測の損害を与えないことのみを目的とした対抗要件に過ぎないものである。

ニ、したがって、右通知が対抗要件として活用せられる場合は、他に多くあるわけではあるが、事離婚した妻に関する限りこのような取引法上の便宜規定をもつてその絶対的地位に影響を及ぼすことはできないものである。

なお、ここに一言附加すべきことは、所謂対抗要件の性格についてである。すなわち、そのこれを規定する目的にしたがい、かつ、内容も亦これに必要にして十分な限度に解釈せられなければならないということである。保険金受取人たる妻の離婚の場合、その妻たることは保険契約書上明記せられており、離婚の事実は必要書類である戸籍騰本上にこれ亦明記せられておるため、何らの調査をも要することなく、保険者は既にこれを知了しているのである。通知の有無などこの場合何ら関係はないのである。したがつて、もし保険法の規定がこのような場合までもこれを含み、それゆえに保険者が対抗要件のない故をもつて保険金を離婚した妻に支払うことを強行しなければならないものと解するならば、かかる保険法の規定は正しく人倫の道を破り憲法に違背するばかりでなく不法領得を強い公序良俗に反するものといわねばならなくなるであろう。そのような濫りな拡張解釈は、厳にこれを慎しまねばならないことは明白である。

さて、以下記すところは、後述するところによる結論なのであるが、思考の節約上、これをここに付加することとする。

ホ、保険契約者または被保険者が保険金受取人を妻(氏名を並記したと否とに拘わらない)と指定した場合、その指定者の意思は明らかに婚姻の継続を条件とするものである。したがつてかかる指定の本質は妻との離婚を解除条件とする意思表示と解釈しなければならない。

ヘ、改正前の商法の規定は明らかに右の事実を裏付けするものである。

ト、右指定の際妻何某と氏名を並記した場合そのいずれを主体とするものであるかは各民族固有の伝統的理念により決せられるべきものである。したがつて我が国に関する限り、これをもつて「妻」にこそ主体を置いたものと解すべきことは余りにも明白である。若しこれにつき外国文献を藉りて別異の解釈をなすが如きことは、憲法およびその他の法規上は勿論条理ないし社会通念にも完全に反する違憲違法の解釈としなければならない。

第五、保険契約者、被保険者が保険金受取人につき、これを妻と指定した場合の意思について

いま、夫が自ら保険契約をなし、あるいは夫の所属する団体の代表者が夫を被保険者として夫のために保険契約を締結する場合、その保険金受取人を夫の妻と指定した場合、これが我が民族固有の伝統的道義感、すなわち条理ないし社会通念に照らすとき、その指定に妻の氏名が並記せられていると否とに拘わりなく、これを婚姻関係継続の条件にかからしめているものであることは余りにも明白なところである。

すなわち、我国に関する限り、老若と男女とを問わず、また都鄙いずれにおいてするとに拘わりなく、これに反する答をなすものを発見することは不可能であろう。

したがつて、その指定あるいは同意の性質について、これを平明に解するとき

イ、その指定あるいは同意は、離婚をもつて解除条件とするものとするのをもつて最も完全なるものとしなければならない。

ロ、妻との離婚は、社会通念上、明白な事情の変更である。したがつてさきの指定はその効力を失うものとするもの、多少真意を離れるものではあるが、次善というべきであろう。

ハ、保険法は、かかる場合についての直接規定を欠く。したがつてこれに最も類似する場合として保険金受取人の死亡の際の規定に従うべきものとするもの、迂路ながら結論的には正しきに帰するものとして三善とするに足るであろう。

以上の外には、上告人は、保険契約者、被保険者の意思を解すべき術を知らないのである。

第六、明治四四年改正の行われる以前における商法第四二八条について

同条は、いしくも、次のとおりであつたのである。

保険金額ヲ受取ルヘキ者ハ被保険者、其相続人又ハ親族ナルコトヲ要ス

保険契約ニ因リテ生シタル権利ハ被保険者ノ親族ニ限リ之ヲ譲受クルコトヲ得

保険金額ヲ受取ルヘキ者カ死亡シタルトキ又ハ被保険者ト保険金額ヲ受取ルヘキ者トノ親族関係カ止ミタルトキハ保険契約者ハ更ニ保険金額ヲ受取ルヘキ者ヲ定メ又ハ被保険者ノ為メニ積立テタル金額ノ払戻ヲ請求スルコトヲ得

保険契約者カ前項ニ定メタル権利ヲ行ハスシテ死亡シタルトキハ被保険者ヲ以テ保険金額ヲ受取ルヘキ者トス

これによつて、これを見るとき、右に述べた上告人の解釈は明らかに正当であり、寧ろ他に何らの解釈の余地がないことを完全に知らされるのである。

念のため当時における文献を調査するとき、本規定は、実に先進諸国中にも、比類先例を見なかつた我国独得のものであり、識者より高く評価せられたものであつたという。ただ本条の厳しさが実際上必要とせられた保険を排斥することとなる不利の故をもつて、実際家よりは歓迎せられず、その後解釈上幾多の難問をも包蔵する欠点が次第に判明するに至つたため、屡ゝ繰返された実際家の要求を容れこれを現行規定の如く改正したものであることが知られるのである。当時成長最も著しかつた生命保険業界の新分野のすべてを、包容するための已むを得ない改正であつたことが知られるのであるが、特に留意しなければならないのは、その際本規定の「親族関係カ止ミタルトキ」なる概念そのものについては、何らの批判もあつたわけではなく、改正は、いわば新分野を包含するための拡大に過ぎなかつたのであるから、この部分の示す精神そのものについては、何らの変改をも受けることなく、我民族の誇るべき固有の伝統的道義として、今日に至るまで持続せられているという点についてである。

第七、保険金受取人として妻とその氏名とが並記せられている場合の解釈について

上告人は、さきに記したように、この場合においても、理論上、また社会通念に基ずく当事者の意思解釈上何ら問題となるべきものはないと確信するところである。

けだし、前記のように、何人にこれを質問するとするも、かかる場合、その主要部分は「妻」であり、氏名はたゞその追書に過ぎないとの答を得べきことは、我国に関する限り(上告人は世界いずくなりとも良識人なる限りといいたいのであるが)極めて当然と考えるからである。

しかしながら、ここに乙号証なるものがあり、これによれば、実に怪しむべき学説等の実在することが明らかである以上、これに対する反駁の煩を厭つてはならないことを痛感させられるのである。ただし、上告人の心中は、「鳴呼、法は時に権に勝たずの言は真なりしか」。というに尽きるのである。

乙第二号証の一については何らの根拠も記載せられていないので、上告人としては、ただその識見の浅薄さを憂うるばかりである。また丙号証は本件とは何ら関係がない。ただ乙第二号証のA'A"B'B"に至つてはこれに付せられた理由の荒唐さについて一応これを論ずる必要があると思われるのである。

しかし、上告人は、不幸汗顔ながら、一九二七年における独国の社会事情についても国民性についてもこれを実地に見分するところがない。そのため、これを著者と同席するが如くに相論ずることは不可能であり、結局は、見解を異にする一方的論議に終らざるを得ないことを心から遺憾とするものである。

卒直にこれをいつて、上告人は先ずその結論の異常さに思わず目を見張らさせられたのであるが、恐らくは、著者の個人的立前の必要がかくあらしめたものかと解しておつたところその註(4)の説明を見るに及んで、同一地球上の人類中にかくも正逆顛倒する論理を有するものがあり得るのであろうかと唯々驚倒される外はなかつたのである。

この上告人の驚きは、恐らくは日本人たる者(敢えて学を曲げんとする者を除けば)、何人といえどもその思を共にするところであろう。蓋し、我国に関する限り、妻を保険金受取人として指定する場合における総べての夫の意思は、その妻が自己亡き後一家を支え子女を養育することの容易ならざる苦労を察し、多少ともその経済上の支柱として役立たせようとするにあることに何の疑いもないのである。これ、我国においては、万人共通の至情であり、恐らく曲学の士といえどもその立前を離れた真情においては何ら異なるところがないのではないであろうか。したがつて、我民族の伝統中に生きる者は勿論、他の諸国においても亦人情を解する社会に生きる者である限り、かかる場合の解釈においてはその思を一にするであろうことにいささかも疑はない。げに恐るべきは独人というの外ないのである。

第八、原判決の違憲、違法および理由の欠如および齟齬について

イ、第一点

原判決は、理由2として本件各保険契約において、保険金受取人が「妻、甲山花子」と指定せられた場合、同女が妻の地位を失つてもその資格、権利には変更がない旨認定せられたその理由として、

「本件団体定期保険普通保険約款の第三四条には、保険契約者は、被保険者の同意を得て死亡保険金受取人を指定しまたは変更することができ、併せて右指定または変更は、その旨を保険者に書面で通知してからでなければ同人に対抗しえない旨が定められていることを認めることができるところ、このように書面により保険金受取人の指定、変更をすべき旨が定められているのは、これが誰であるかをできる限り明確ならしめようとの配慮に基づくものと考えられ、右書面に保険金受取人として被保険者との続柄及び氏名が併記されている場合には、その続柄の記載は保険金受取人を特定するためのものに過ぎないと解するのが相当である。」

とせられるのである。

しかしながら、この説明は、その根本において、憲法上の離婚の厳粛性に対する解釈であり、我民族固有の伝統的道義感すなわち条理ないし社会通念に著しく反するものであることは既に述べ来つているところであり、殊に前記第六および第七において詳細にこれを説明しているとおりである。

さらに、保険契約証書中の妻の記載をもつて受取人特定のためのものに過ぎないというが如きは契約当事者の真意にも社会通念にも全く反する一方的身勝手極まる解釈に過ぎないことは極めて明かであり、かゝる社会通念を無視する解釈について何ら格段の根拠を示されないのは、理由の欠如というの外はない。

また、保険約款中の対抗要件の記載が受取人を明確ならしめようという配慮であるとする説明も亦、本来かかる観念を容れる余地のない前記の如き憲法ないし身分法上の絶対的概念について、あえて取引上の便宜概念をさし挾み得ることの根拠について何ら言及せられていないのは明らかに理由の欠如に外ならないものである。

今仮りに、原判決を文字通りに理解するとしても、保険者は、すでに保険証書によつて保険金受取人が被保険者の妻であることを知悉しており、さらに、保険事故の発生と保険金受取人の同一性証明のための戸籍謄本をも手中にしているのであるから、両者間の離婚と、妻の改姓に至るまですべてこれを知悉しているのである。したがつて、条理の示すところに従い、保険者自身において、かかる事実を認め、被保険者の相続人に対し保険金額の支払をなすのに何の支障もある筈はないのである。また、かかる事実知悉者に対し対抗要件を付加する必要の何らないことも亦、条理上当然としなければならない。

しかるに、原判決は、保険者の独善的事務処理上の都合に基ずき、殊更に対抗要件に関する規定を過大評価し、その責を相手方に転じようとするものでありその事の軽重無視の甚だしさは、全く社会通念に反するものという外ないのである。原判決において、何故に事実知悉者に対抗要件の必要があるのであるか、また何故平明なる条理に従つて事務を処理することなく、却つて対抗要件を過大評価してこれを法律行為自体の如く取扱われるのであるかについて何ら根拠を示されないのである。

要するに原判決は、以上の諸点について、明かに憲法およびこれに基ずく法令に違背するばかりでなく、上記のほとんど全体にも亘る理由の欠如が極めて明白であるといわなければならない。

ロ、第二点

原判決は続いて

「これを本件に即していえば、更新、継続された本件保険契約の当初において保険金受取人として、被保険者太郎の妻であつた控訴人花子が「妻、甲山花子」として指定されている以上、その後同人が離婚して太郎の妻ではなくなつたとしても、依然として控訴人花子が保険金受取人であるといわなければならない。」

としその理由として

「けだし、定型的な多数の取引を必然的に要求する保険制度においては、保険事故発生の場合の保険金受取人が誰であるかについて当該保険契約の締結にあたり保険金受取人を指定または変更した保険契約者の表示行為を合理的に解釈してこれを確定すべきであつて、被保険者等の個別的な事情によりその意思を付度してこれを定めるべきでないことは当然であり、事情の変更により保険金受取人を変更したいという場合には前記の手続によつてこれを変更することができるのであるから、前記の約款に定められているとおり書面による明確な手続によつてこれをなすべきことを求められてもやむを得ないことであつて、このような変更手続をすることなしに一旦指定された保険金受取人の地位が変動すると考えることはできない(もとより、保険金受取人が単に「被保険者の妻」というように続柄にのみによつて指定された場合は別論である。)控訴人花子が太郎と離婚し、乙川一郎と再婚するに至つた事情が如何ようにもあれ、この点について被控訴人らの前記主張を採用する余地はない。」

と説示せられるのである。

しかしながら、原判決は、この部分においても違憲、違法理由の欠如を反覆せられているのである。

すなわち、すでに上告人が屡々述べ来り、特に第一の後段に詳説しているように原判決の金科玉条とせられる定型的多数処理論は保険者の都合の問題であつて何ら相手方に不利を求め得る筋合のものでなくすでに全勢を極める生保業にあつてはかかる甘えはこれを修正する要がある段階に入つていることを自覚しなければならないものなのである。

しかも保険事故発生の場合の保険金受取人が誰であるかについては当該保険契約の締結にあたり保険金受取人を指定または変更した保険契約者の表示行為を合理的に解釈してこれを確定すべきものとせられることは正しくその説かれるとおりであるが、何をもつて合理的解釈の基準とするか、その合理的なる所以はいずくにあるかについては一言の説明もなされていないのである。上告人は保険契約者の表示行為についてこれを合理的に解釈するための基準をなすものは我国の条理ないし社会通念に外ならないものであるから、それによるべきことおよびこの場合における我国の条理ないし社会通念による判断としては何が最も正しい結論であるかの点については、これを本件における中核をなすものであると考えているため、すでに繰返し縷々として述べ来つているので、こゝにさらにこれを反覆することを差控えるが、この点についての原判決の理由の欠如は特にこれを指摘しておきたいのである。

原判決は自らこれを説明することに代え顧みて上告人側の非を挙げるかのように、被保険者等の個別的な事情によりその意思を忖度してこれを定めるべきでない旨説明せられるのであるが上告人が第一審において述べた事情はすべて事案の実体について裁判所にこれを知悉願いたいためのものに過ぎず、決して個別的事情につき意思を忖度せらんことを求めるものでないことは法曹人の常識として明らかである。そしてその法曹人の常識として上告人の求めるところが、正に契約書そのものの記載を社会通念に照らして合理的に解釈せられることの一点にあることは明白であるのに拘わらず、この点についてあえて応対せられるところなく顧みて他を云うが如きは理由の欠如の最たるものとしなければならない。

原判決はさらにこれにつき上告人に書面による保険金受取人の変更手続がなかつたことを挙げられるのであるが、離婚が憲法に規定せられる基本的事項であつて取引法上の対抗要件概念に遙かに優越すべきものであることについては上告人がすでに第二その他においてこれを詳述して来ているとおりであるからここにさらにこれを繰返すことを差控えたい。

しかも前述したように受取人が妻であることおよび離婚の事実そのものについては保険者が夙に知悉することが明白である以上、かかる当事者に明白なる事実について敢えて対抗要件を要するものとなすことは実益なき手続を強いることにより不当にその取扱を枉げようとする非道義極まる行為という外はなく仮りにかくの如き解釈が正当なりとすれば本条自体をもつて公序良俗に反する無効の規定としなければならないのである。

これを要するに原判決は本点においても亦冒頭に記した如き誤りを繰返されているものである。

なお、原判決が括弧内に述べられている見解が、何ら理由のない不当のものであることについても、既にこれを述べているところであり、本点は念のため付言せられているに過ぎないものと解せられるので、敢えてここに繰返すことは、これを差控えることとする。

ただ、最後に一言、事情として附加しておきたいことは、本件団体契約の実体についてである。

元来、団体契約は、当事者にとつて、それそれの利点がある筈のものであるに拘わらず、その概ねの利益は、保険者において比較的その労少なくして多数多額の契約を確保できるという点に占められ、次いで一般的に団体そのものがその保険者の利益の一端の分与にあずかることができるという点にも及ぶのであるが、被保険者たる所属の一会員に至つては、何ら格段の利益を受けることなく、ただ、会に対する義理を果すというにとどまるのが実情に過ぎないのである。

しかも、上告人先代は、遠く県医師会本部を離れた地方小都市にある者として、保険料の負担以外何らのかかわりもなかつたのであつて、契約手続その他一切の事務は会事務員と担当の保険者外務員との間において処理せられていたのである。原判決は、しきりに上告人先代の受取人名義変更手続を履践していないことを責められるのであるが、これがために要する所定の用紙も亦、担当外務員の手にあり、保険証書に至つては深く契約者たる会長の手中にあつたのであるから、万事につき担当外務員の援助による外なかつた被保険者としての上告人先代が、その手続の不履践について負うべき責の大半は、これを怠慢不親切な医師会長と担当外務員とにおいてこれを負うべき実情であつたことをご了知賜わりたいのである。

恐らく、各地の団体契約被保険者中には、上告人先代と同一の憂目に遭つている者が数多く存することであろう。

上告人先代にとつて痛恨の一大事たる本件も被上告人にとつては単なる事務処理上の些々たる問題に過ぎないことを思うとき、被上告人はよろしく生命保険業界の実力が何によつてここに至り得たかを反省し、その間の数多くの犠牲者に対し、今や救済の途を開くに吝かであつてはならない時期にあることの感がまことに深いのである。

人衆ケレバ天ニ勝ツ。天定アツテ人ヲ破ル

まさに、天すでに定まれりと見るべき時なのではないであろうか。

むすび

以上により、原判決は極めて違法であり、これを破棄せられるべきものと確信するものである。

同代理人の上告理由補充書記載の上告理由

一、上告人は、次のとおり上告理由を追加(補足)する。

すなわち、上告人は、前書の最後において、「事情」として付加した事実につき、これに次のとおり補足した上、上告理由の第三として、御判断を仰ぐものである。

上告人がさきに事情としてこれを述べるにとどまつたのは、上告人が本件について特に注意を要する重要点中の一つである団体保険契約における被保険者の地位およびその保護について、その実体を十分把握するに至つていなかつたためである。まことに、慚愧に堪えない。

いま、乙第一号証(被上告人Y2生命団体定期保険普通保険約款)および第二号証(被上告人Y1生命団体定期保険普通保険約款)を具さに検討するとき、

第三条(両約款いずれも同文、以下もまた同じ)

「この保険契約者は、団体または被保険団体の代表者であることを要します。」

第三〇条

「保険契約者は、任意にこの保険契約から一部の被保険者を脱退させることはできません。ただし、当会社が認めた場合には、この限りでありません。」

第三四条

「保険契約者は、被保険者の同意を得て、死亡保険金受取人を指定しまたは変更することができます。

前項の指定または変更は、その旨を当会社に書面で通知してからでなければ、当会社に対抗することはできません。」

等と規定せられているのであるが、その間において、実質上の保険料負担者であり、その生命をもつて保険の対象とし、いわば最重要の地位にあるべき被保険者の権利ないし保護については、第四四条の契約解消時等における個人保険への加入以外、一言もこれを記るされていないのである。

したがつて、規定上よりするときは、被保険者は、一個の対象物たるに過ぎず、自ら保険金受取人の指定、変更をなす権限すらないのである。このような被保険者の人権を無視した約款が果して合憲として許されるべきものであろうか。その結果招来せられたものが本件であることに思を致すとき、本件の処理は、特に慎重を要するものであることを痛感せざるを得ないのである。

しかるに、原判決のいわれる如く、妻の離婚について、格段の手続を要するものとするならば、かかる手続すら自らなす権限のない被保険者は、余りにも惨めなものという外はなく、これを救う唯一の途が、上告人の所説であることが何人にも明白なところであろう。

すなわち、原判決が、この点の解釈を誤られたことは、とりもなおさず、本約款をもつて非合憲となすものとして、明かにこれを違法としなければならない。

二、上告人はさきの理由書において、強調した諸点について、これを一層強調、補足したい衝動を禁ずることができない。

しかしながら、徒らに自説を反覆することの非礼を恐れ、ここに、青谷和夫氏著生命保険契約法(有信堂発行昭和四〇年四月一日第三刷)の「はしがき」(末尾添付)を藉りることとし、これによつて、従来の学説、判例の学説、判例の立場の実情を明確にすると共に、自説に対する御理解の一助としていただくことを念ずるものである。なお、同氏は、乙第二号証の一―Bの筆者に外ならないのである。

(イ) 「進歩的な保険の実際は、たえず急激な進化をつづけ保険の立法や保険の学説に対して先駆者たるの栄誉をになつている。近代的な保険契約法がいずれも最近五十数年間の所産になるものであり、五十数年前の学説が今日の保険といちじるしくかけはなれたものとなつていることは、その間の事情を最もよくものがたつているともいえる。現行の保険契約法が一九〇八年のドイツ保険契約法、スイス保険契約法、一九三〇年のフランス保険契約法などと異なり、すべての保険を律するのに無差別に自由主義的精神をもつてつらぬいていることについては、立法論として検討すべきものがあるにせよ、われわれは、現行の保険契約法が進歩的な保険の実際的要請に発因する普通保険約款によつてたえず修正を加えられていることを無視しては生きた保険契約法を理解することはできない。」(1頁一二行ないし2頁五行)

すなわち、従来の立法、学説は、ひつきよう、保険の実際に随行するに過ぎないものであつたことが十分理解できるのである。

(ロ) 「保険契約法に関する文献は少なくない。しかし、これを他の商法学の分野におけるそれに比べれば決してほこるべきものとはなつていない。それは保険契約法のもつて生れた宿命的な素因が容易にこの法律をして近づきにくいものにしているからである。保険契約法に関する参考書はだいたいこれを三つの系列にわけることができる。その一は、純粋の商法学者の手になるものであり、その二は、商法学者の中でも保険の実務の方面の顧問ないし相談役として常に保険業界と緊密な接触をもつている学者の手になるものであり、その三は、経済学者――主として損害保険の分野に多い――ないしは保険の実務家の手になるものである。保険契約法の参考書のうちで、最も優れたものは、第二の類型に属するものであるが、優れた商法学理論の上に保険の実際に関する知識経験を豊富にとりいれて新らしい保険契約法理論をうちたてている。

第一の類型に属するものは、その理論構成に深みがなく保険の実際とはあまりにもかけはなれたものとなつているため、そこに生きた保険契約法が発掘されていないといつたうらみがないとはいえない。第三の類型に属するものは、実際問題に対する分析に努力の跡がみられるにしても、法律に対する総合的理解に欠けるうらみがないとはいえないため、文学者の手になる外国関係法の翻訳にみられるような誤解がしばしばくりかえされ、そこに精緻な法律論の展開というものがみられない。」(2頁六行ないし一七行)

すなわち、従来の優れた学説とせられたものが、保険業界と緊密な関係をもつ人々によつて生れ、必然的に、これに迎合する傾向をもつた理由がよく理解できるのである。

(ハ) 「いずれにしても、保険契約法を理解することはむずかしい。保険契約法を外国保険契約法との比較においてのみ解釈していただけでは不十分であつて、保険の実際の面において行なわれている慣習法ないし事実たる慣習はもとより保険に関する判例法の研究を重視するところがなければならない。けだし判例は、簡潔な保険契約法と保険の実社会におこつているさまざまの事象との間に立つて、法律解釈についての科学的方法論に立脚しつつ慣習法ないし事実たる慣習を考慮にいれて、そこに客観的普遍妥当性を発見しえたものであるからである。」(2頁一八行ないし3頁四行)

すなわち、これによつて、従来の判例も亦、実際家の追随者に過ぎなかつたことが、よく理解できるのである。

(ニ) 「法律の認識は、科学的でなければならない。科学は自由ならんことを生命とする。科学は常に事物の認識を進めんとするからである。われわれは、常に新たなる認識を進めることによつて、新たなる創造を進めることができる。法律は、みかたによつて自由をきらうとされる。しかし、われわれの生活は、不断に進歩し、事物は常に動揺をつづけてやまない。日に日に動いてゆく生活に対し万古不易を期するかのごとくみえる法律は、むしろ桎梏のはなはだしいものといわなければならない。いかに法律がその実定法のゆえをもつて客観的妥当性を強いんとしても、われわれの実生活と遠ざかることはなはだしいものとなつては、その法律は死滅せざるをえない。そこで、われわれは、事物を認識するとき、法律をとおしてそれに内在する論理的価値を新たなる技術をもつて科学的に洞察しなければならない。このようにして、法律は無限に新たなる生命をつづけることができるのである。法律が社会の通念ないし事物当然の法理によつて浄化され育成されていくところに常に生きた法が発見されるのである。法律の解釈は、法規範の意味するところのものを論理的に科学的に認識する精神活動である。われわれは、法律を解釈するにあたつて、常に既成の法律を出発点として、この法律関係を妥当に処理し、将来に向つて適当な保障を与えるよう努力しなければならない。保険に関する判例は、まさに、このような法律解釈の論理的要請の帰結として生れたものである。立法は、常に去らんとする伝統の間に、来らんとする新思想を迎えたものにほかならないのであるが、われわれは、この法律を合理的に解釈することにより、永遠に生命あらしめることができるのである。そこに判例のもつ重要性が認識される。けだし、判例は、牧野博士のいわれるように、事実の実際的要求の裡から湧き出たものであり、社会の通念によつて浄化されたものであり、論理的な要素と歴史的なそれとの交互感応によつて、科学的に法律を生活事実に応化せしめるとともに、われわれの生活事実を法律に応化せしめたものであるからである。

判例の生命は、その裏面に潜在する事象が法律をとおしていかに浄化されたかに存する。それゆえ、われわれが日常保険の実際問題に直面して保険契約の解釈に悩みその指標を保険の判例に求めようとするとき注意しなければならないのは、判例のよつて来れる具体的事実がいかにして社会感情によつて浄化されているかを知ることである。そのためには、それぞれの判例に潜在する事実を明らかにしなければならない。」(3頁5行ないし4頁7行)

すなわち、これらのことは、保険法に関する従来の判例が、如何に理想主義、人道主義ならびに純粋理論に背馳しながら、只管実際家の実際問題の処理のための便宜に奉仕して来たかを理解させるに足るものといわなければならない。

(ホ) 「由来、日本民族は、宇宙そのものをはじめあらゆる事物をみるにつけ他の民族と異なるものがある。一口にいえば、西洋や中国の文化の重心は感覚の面にあるようであるが、日本文化は感覚の面よりも奥の方に重心をもつている。たとえば、神社仏閣の建築をみても、外国のそれは表面がいろいろに加工され複雑多彩をきわめているが、わが国のそれは、表面はなはだ簡素である。また、われわれの家にしても、本屋は門の奥に構えられ、神社はいくつかの鳥居と長い参道の奥深いところにまつられている。このように、わが民族の特異性は、事物をながめるにあたり、すべて表面を飾ることなく、観察の重心を奥において考えるところに存する。それゆえ、事物の表面のみをみて、彼我の文化の優劣を決定するわけにはいかない。簡素な表面は奥にある豊かなる哲理を引き出す糸口をなすものであるから、その表面は豊かな奥の哲理のごく一部分を示しているにすぎない。わが民族はどこまでも表面簡素にして奥深きを探求する性格をもつている。奥深きことは奥ゆかしきことである。」(4頁一四行ないし5頁四行)

この部分は、甚しく示唆的であつて、正に上告人とその思を一にするものである。しかしながら、学説の世界が未だ実際界に密着し、その旧態を脱することが至難である実情に徴するとき、今や、判例は、よろしくその学説追随の態度を放下して、ヒューマニズムと我が民族の伝統的正義感とによる資本主義社会の弊風改革の主導権をとられるべきことを切望するものである。

三、以上の考慮の下に、従前の学説を再検討するとき、それが如何に無理論、無理想、無反省に実際家の身勝手な処理の便宜のため奉仕して来たかの姿が、雲霧の晴れ行くが如く、判然とするのである。

付合契約、大量画一処理が、単なる保険者の都合に追随するための浅薄極まる非人道的理屈付けに過ぎないことについては、前書においても屡々述べ来つているとおりである。例えば、保険金受取人を単に妻と記載した場合それが前妻でなく後妻となるとし、妻と氏名を並記した場合それが記名者個人となるとするが如き、そこに明かな理論上の断層があることは何人にも明かなところであり、一貫しているものは、ただ保険者の一方的身勝手な処理の安易さということのみであるということを、正に十分に熟視し直すべきであろう。

要点のみ繰返すことをお許しいただけるならば、我が国固有の民族通念の指示するところ、保険金受取人に妻が指定せられた場合、そこには妻とその個人とが合一して指定せられているのであり、その表現が単記たると並記たるとに何らの相違もないのである。たとい妻の記載がなく単に氏名のみのものであつたにせよ、我が国固有の民族通念は、必ず、離婚によつてその資格を失つたことを肯定するであろうことには何の疑もない。ただ、この際において、はじめて保険者はその不知をもつて対抗し得ることとなる余地が生ずるのであるが、前記保険約款第一九条の死亡保険金の請求手続に定める提出書類によれば、この場合といえども、実際上はその余地がないことをもつて一般となすべきであろう。

なお、序でを以て論及することをお許しいただけるならば、原判決は、画一処理主義を極端に信奉せられるようであるが、保険金支払は、契約時およびその継続中を通じて常に準備せられる必要のある問題ではなく、ただ、その支払時において、その受取人の明確性が必要である問題に過ぎないことが、事理上当然とせられるのである。保険学上の理論はすべて後発的なものに過ぎないことは、前記青谷氏の「はしがき」によつても明かなところであり、その適用はこれを必要にして十分なる限度にとどめなければならないことはいうまでもないのである。

若しそれ、さきに論じた乙第二号証―二各証の荒唐極まる所説に至つては、かかるものをしも採用すべきか否かは、正に民族の良心の問題というべきであり、その帰結のまことに明々白々たることは、何人も、これを信じて疑わないところであろう。

第三、おわりに

資本主義万能時代は、夙にその終を告げ、全世界におけるヒューマニズムと各民族固有の道義感との復活は、今や、事ある度に、極めて顕著である。

この、後者による前者への顕著な批判と修正の時期において、最高の道義の府たる裁判所におかれては、よろしくその主導的地位を踏まえられた上、公正にして普遍妥当なる御判定を下されんことを、偏えに祈念して已まない次第である。

上告代理人木村一八郎の上告理由

原判決は一審判決を取消し上告人(被控訴人)の請求を棄却し、その理由として、

『被控訴人らは、本件各保険契約において、保険金受取人が「妻甲山花子」と指定されていることから、控訴人花子が離婚して太郎の妻の地位を失つた以上控訴人花子には保険金受取人としての資格、権利がなく、太郎の意思からしても事情の変更により控訴人花子は保険金受取人としての地位を失つたと解すべきであると主張する。

しかしながら、その成立に争いがない乙(イ)、(ロ)各第一号証によれば、本件団体定期保険普通保険約款の第三四条には、保険契約者は、被保険者の同意を得て死亡保険金受取人を指定しまたは変更することができ、併せて右指定または変更は、その旨を保険者に書面で通知してからでなければ同人に対抗し得ない旨が定められていることを認めることができるところこのように書面により保険金受取人の指定、変更をすべき旨が定められているのは、これが誰であるかをできる限り明確ならしめようとの配慮に基くものと考えられ、右書面に保険金受取人としての被保険者との続柄及び氏名が併記されている場合には、その続柄の記載は保険金受取人を特定するためのものに過ぎないと解するのが相当である。

これを本件に即していえば、更新、継続された本件保険契約の当初において保険金受取人として、被保険者太郎の妻であつた控訴人花子が「妻、甲山花子」として指定されている以上、その後同人が離婚して太郎の妻でなくなつたとしても、依然として控訴人花子が保険金受取人であるといわなければならない。けだし、定型的な多数の取引を必然的に要求する保険制度においては、保険事故発生の場合の保険金受取人が誰であるかについては当該保険契約の締結にあたり、保険金受取人を指定または変更した保険契約者の表示行為を合理的に解釈してこれを確定すべきであつて、被保険者等の個別的な事情によりその意思を忖度してこれを定めるべきでないことは当然であり、事情の変更により保険金受取人を変更したいという場合には前記の手続によつてこれを変更することができるのであるから前記の約款に定められているとおり書面による明確な手続によつてこれをなすべきことを求められてもやむを得ないことであつて、このような変更手続をすることなしに一旦指定された保険金受取人の地位が変動すると考えることはできない。(もとより保険金受取人が単に「被保険者の妻」というように続柄のみによつて指定された場合は別論である。)

控訴人花子が太郎と離婚し、乙川一郎と再婚するに至つた事情が如何ようにもあれこの点について被控訴人らの前記主張を採用する余地はない』旨判示した。

論旨第一点

一、本件団体定期保険普通保険約款第三四条には、保険契約者は被保険者の同意を得て死亡保険金の受取人を指定または変更することができ、右指定または変更はその旨を保険者に書面で通知しなければ保険者に対抗できない旨定められておることは原判決摘示のとおりである。

本件団体保険の契約者は大分県医師会長○○○であり、同人の右指定、変更は被保険者(本件においては甲山太郎)の指示によらなければならないのである。従つて、同人の死亡保険金の受取人は、被保険者である同人が決定しその旨を保険契約者○○○に通知し、同人より保険者である被上告人Y1生命、同Y2生命に書面をもつて通知することにより受取人が指定される。

即ち、本件保険金の受取人は被保険者甲山太郎の意思によつて決定されるものであることは疑の余地はない。

二、本件生命保険契約については、大分県医師会長○○○は被上告人Y1生命との間では昭和五一年一〇月一日に、原判決別紙第一目録記載の、被上告人Y2生命との間では昭和四八年七月一日第二目録記載の各団体定期保険契約を締結した。右各保険契約の期間は一年間であるが期間満了後も更新され、被上告人Y1生命との間は昭和五四年一〇月一日に、被上告人Y2生命との間では同年七月一日に各更新されていることも原判決摘示のとおりである。

三、本件二つの保険契約締結の際、被保険者である甲山太郎は保険金受取人を「妻、甲山花子」と指定した。

原判決は「妻」との記載は受取人である「甲山花子」を特定するためのものに過ぎないと判示している。

商法第六七九条は、

「生命保険証券ニハ第六四九条第二項ニ掲ケタル事項ノ外左ノ事項ヲ記載スルコトヲ要ス

一、保険契約ノ種類

二、被保険者ノ氏名

三、保険金額ヲ受取ルヘキ者ヲ定メタルトキハ其者ノ氏名」

と規定している。

即ち、保険金の受取人はその氏名により特定されるものであり、氏名の記載は保険証券の必要的記載事項であり、またこれのみで充分である。然るに、被保険者甲山太郎が受取人を「妻、甲山花子」と指定したのは「妻である甲山花子」を受取人に指定するという意思に基くものであり、「妻でない甲山花子」或は「妻でなくなつた甲山花子」をも受取人に指定する意思は全くないことを明らかにしたものというべきである。

原判決が、「受取人の氏名と被保険者との続柄が併記されている場合その続柄の記載は保険金受取人を特定するためのものである」と判示したのはその表現自体は正しいと言えるであろうが、その続柄の一つである「妻」の地位が受取人を特定するものであると解することなく「更新継続された本件保険契約の当初において保険金受取人として被保険者太郎の妻であつた控訴人(被上告人)花子が「妻、甲山花子」として指定されている以上その後同人が離婚して太郎の妻でなくなつたとしても依然として控訴人(被上告人)花子が保険金受取人であるといわなければならない」と判示したのは、判決に影響を及ぼすことの明らかな法令違反というべく到底破棄を免れない。

論旨第二点

一、原判決は前記の如く、被上告人花子が被保険者太郎と離婚して太郎の妻でなくなつたとしても依然として花子が保険金受取人であると解すべき理由として、

「けだし、定型的な多数の取引を必然的に要求する保険制度においては、保険事故発生の場合の保険金受取人が誰であるかについては、当該保険契約の締結にあたり、保険金受取人を指定または変更した保険契約者の表示行為を合理的に解釈して確定すべきであつて、被保険者等の個別的な事情によりその意思を忖度してこれを定めるべきでないことは当然である」と判示している。

単に、保険制度は定型的な多数の取引を要求するものであるから保険金受取人の指定または変更については保険契約者の表示行為を合理的に解釈してこれを確定すべきであつて、被保険者の当初の受取人指定の意思は無視すべきであるとの原判決の判旨ではその理由が明確でない。即ち、原判決には理由不備の違法ありといわねばならない。

けだし、定型的な多数の取引を必然的に要求する保険制度においても保険事故発生の場合受取人には戸籍謄本を支払請求書に添付することが義務づけられており、現在妻であるか否かについて調査に混乱を生ずる余地はないからである。

二、又原判決は、「事情の変更により保険の受取人を変更したいという場合には前記の手続によつてこれを変更することができるのであるから、前記、約款に定められているとおり書面による明確な手続によつてこれをなすべきことを求められてもやむを得ないことであつて、このような変更手続をすることなしに一旦指定された保険金受取人の地位が変動すると考えることはできない」と判示しながら、(もとより、保険金受取人が単に「被保険者の妻」というように続柄のみによつて指定された場合は別論である)と附言している。

即ち、原判決は保険金受取人を単に「被保険者の妻」とのみ指定しておる場合には妻が離婚によつてその地位を失つたときは、保険約款に定められている受取人の指定変更に関する手続(書面による保険者に対するその旨の通知)を履践しなくても当然保険金受取人たる資格、地位、従つて受取りの権利を喪失すると解しているのである。

上告人は被上告人花子が離婚により妻としての地位を失つたのであるから、受取人の指定、変更に関する前記の手続を必要としない旨原審以来主張してきたのである。

本件保険金受取人として「妻甲山花子」との指定、記載は「被保険者甲山太郎の妻」とだけの記載と全く同一であると解するのが合理的である。それが甲山太郎の意思であることは極めて明確である。

即ち、原判決には理由齟齬の違法があるというべく到底破棄を免れない。

論旨第三点

一、受取人を「妻、甲山花子」と指定してあるのに、離婚して後も尚同人の受取人としての地位に変更がないというためには、何らかの特段の事情がなければならないと解すべきであろう。然しながら、被上告人花子に関する限り離婚後も受取人であることを容認すべき特段の事情は全くないのである。

上告人が原審において、昭和五六年七月一五日付準備書面に基き陳述した如く甲山太郎は生前本件両被上告人会社の外に総額約二億円の生命保険に加入しておつた。死亡する二、三年前半額以下に減額したが、死亡保険金受取人は全部妻甲山花子と指定され実子である上告人両名は一口も受取人に指定されていなかつた。

太郎は花子と離婚後本件団体保険契約以外の個人契約については保険金受取人を上告人両名に変更手続をした。

本件契約は団体保険であり保険契約者は大分県医師会長○○○であつたため、保険証券が手許になかつたので失念して前記手続を怠つておつたのである。(勿論右変更手続を怠つたとしても花子が妻の地位を去つたと同時に受取人たる資格を失つたのであるから、本件の場合受取人の指定のない場合に該当しその結果相続人である上告人両名が受取人となる)

即ち、被保険者太郎の意思は妻である花子を指定したので、妻の地位を失つた花子を受取人に指定する意思のなかつたことはこのことによつても明確である。

保険金受取人指定についての被保険者の意思は無視すべきものでないことは当然である。

二、上告人はこれらの事実を明確にするために、原審において昭和五六年七月一五日A生命とY2生命に対し亡太郎の本件以外の保険加入の事実、当初の受取人が妻花子であつたが離婚後上告人両名に変更した事実の調査嘱託及び証人として甲山八男を申請したが原審はこれを却下した。

この点に関し原判決には審理不尽の違法ありというべく当然破棄されるべきである。

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